昭和五十六年十一月十三日 朝の御理解
御理解第六十八節
神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修業じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばね。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
折角信心に打ち込ませて頂くなら、これなら絶対、これなら間違いがない、打ち込み損なう亊のない亊のです見極めをつけて打ち込まなければ、それこそ惜しい亊だと思います。皆さんが合楽で御理解頂いて下さって、これはもう私が、私自身がこんなにも間違いのない、こんなにも有り難い。どこから押しても非の打ち所のない宗教が又とあるだろうか。そしてあらゆる宗教をまあ、これは私が勉強したわけではないけれども、まあ常識的にいわれる、その宗教の、もうただ常識的に知っ取ることだけでも、これでは本当なものじゃないなあと思われるような節々を感じるのです。そしていよいよもっていわば金光教の信心がすばらしいんだと言う亊をね、見極め、確かめての、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。どんな場合であっても、もう打ち込んでさえいけば、いわゆるその辛抱こそ徳を受ける修業と仰せられる。その徳が受けられるんだと確信してね、進めていかなきゃ、おかげさえ頂ければ何様でもよかとまあ、そんな気がするんですよね。やっぱおかげ、本当に苦しい時にゃ、ここにおかげさえ下さるなら、まあ何様だっちゃええとこう思うような亊がまあ、ございますけれども、ここに一つの信心の、何と言うですかね。節というかね。何かそんなこつ毅然としたものを、その宗教に見極めをつけて、そして私は例え雨が降ろうが、風が吹こうがそれをやり抜こうと言うね、頂き抜こうという亊になってまいりませんと、おかげさえ頂きさえすればよいと言ったような亊で打ち込んでも、それはね本当の合楽で言われる御神徳、又神様が下さろうとしておるおかげには触れられないとこう思うです。 それで合楽ではまあ、実験実証と言う亊を使いますけれども、本気でその気に打ち込んだら、実験、それを実験したら実証が生まれてくる。そしてお話を頂いてなら、あらゆる角度からですね。いわゆるまあ、あらゆる過去の数千年続いてきたと言われる宗教に匹敵しても、それをはるかに凌駕しておると言う亊をね、確かめてからひとつ打ち込まにゃいけん。ね、おかげを頂く為に打ち込む、それは一心を立つれば我が心に神がござるからおかげになるとおっしゃる、ただおかげ。 昨日、或る方が長年、金光様の信心をいたしておりますけれども、いろいろまあ、難儀な亊があると或るまあ、何と言うでしょうかあのう、拝みやさんね。拝んでいろいろ霊さんが助かってござらんとかいう、言うような方からね、いろいろ聞かされて心が動揺せんわけではない。言われてみると成程そういう亊もあるのですから、それで親先生。これは赤裸々なお話でございますけれども合楽にご縁を頂いとって、こういう亊があったですがと、よういろいろ私は真剣にお取り次ぎ、私しゃ真剣に聞きよったばってんから、そんつい、こう笑ってしまうような感じがしたんです。なぜかと言うとそん時に“浅田飴”と言う亊を頂いたんです。浅田飴といや何か咳の薬かなんかがありますでしょう。ね、そりゃもう沢山な宗教があるけれどもね。ただその飴玉と言うか甘いおかげとでも申しましょうか。さえ、頂けりゃどげな、なら浅い信心であろうがどげん考えても合楽で頂く、み教えから言うたらおかしい。先祖の遠い霊さんが一人だけ助かってないから、例えばすがって来てあるとか、そん為孫達が病気をするとかと言ったような亊をまあ、聞いておって私自身がおかしくなったと言うのも、そういう亊にでもやはり私共がね、いろいろ何かの時にゃ迷おうとするし、又そういう信心が沢山あると言う亊。それを本当な亊のように思い込んでおったり。昨日は美登利会でしたから、熊谷さんが一番に発表なさっておられましたが、先達て筑豊支部の御大祭に野村さんの車でお出でられて、その道、道中で野村さんの知ったお家の方に寄られた。まあ野村さんの信心話をいつも聞かれる方であります。ここにも、まあ毎日親先生のお話を聞くと心が安らぎますと言うて、毎日、電話をかけてくると言う意味で熱心です。だからその教えを頂いておられませんから、野村さんのお話を聞かれる。さいわい、熊谷さんもいっしょだったから、まあ求められるままにまだ時間が少しあったから、一生懸命お話をしておるとなら、今日私が実感しておるように、こういう間違いのない、こういう有り難い神様を本当に皆さんが知ったら、どんなにすばらしい世の中になるだろうかと思うから、兎に角、話さずには居られない。ためにはやはり合楽の信心がこんなにも間違いないと言う亊を言うと。間違っておるものをそれを信じておる人達の亊も悪く言うわけじゃないけれども、慈悲では助からんです。愛ではどうにも出けんのでよと言う、日頃ここで頂いとる教えを一生懸命話ておられた。そこはあるお店やさんですからお客さんがみえる。そのお客さんが熊谷さんの話を熱心に聞かれる。まあ熱心に聞かれるから、話されたわけではないでしょうけれども、まあ合楽の信心のすばらしい亊をまあ、これは熊谷さんの絶対信なんですよね。もうそれこそ金光様の御信心をこれ程までに高め、広めて下さった合楽。いうなら合楽理念に基ずいたら、なら他宗教を批判とか、非難じゃ、悪口じゃなくてね。それでは助からん。助かりたいなら、こうあらねばならんと言う亊を、まあ話された。ようにね、そういう一つの確信をもっての、私しゃ人にでも話が出来る程しのおかげを頂くかなければね、私はいけんと思う。そうしてからその所を確かめてから打ち込むね。例えば熊谷さんがもう八十いくつでしょうか。三十年合楽に、吉井から毎日日参をされました。初めの間は勿論いろいろなおかげを頂かなければならない。いろんな事柄があって夫参りされたんだけれども、お参りをしてお話を頂けば、頂く程、いうならば金光様の御信心の有り難い亊。合楽で説かれる話が本当だと言う亊が分って、それを自分が実験し実証して、いよいよ間違いないと思うたら、今言うようになら、キリスト教では、仏教では、過去の宗教では助からんですよ。ここに本当に合楽理念に基ずかねばとと言う亊を一生懸命説かれたと言う亊です。そしたらお話がしまえちしもうてから、野村さんは知ったお方だったです。今聞きよんなさったはクリスチャンじゃった。そのクリスチャンがいわば成程、成程とまあ、合点しなさったかどうかしらんけれども、まあ熊谷さんの話に聞きいっておられたと言う亊でございますけれども。私は皆さんがね、本当になら熊谷さん、なら熊谷さんがこんなに間違いがない信心と確信しておられるように、確信をもって人に伝えられる信心を頂かなきゃいけない。ね、昨日或る方が長年の信心ですけれども、いわば朝参りといったような亊は出けなかった方が、ここもう十日もその上にもなりましょうか.或る方から朝参りを始められておる。長年信心しておったどうして朝参りをしなかっただろうかと。成程おかげを頂いてまいりました。きちっとした教えを徹底して行ずると言う意味においては、第一人者と私がいつも言っておりました方なんですけれども、その方が朝参りに目覚めたね。だからそのおかげを頂くから、何十年間の信心が合楽に縁が切れなかったのだけれども。いよいよこれが本当だ、これが兎に角、朝の御祈念にお参りが出来なかったことを、数十年間振り返ってみて残念に思われる位に昨日、ここでお届けがあったんです。そのもようを昨日の美登利会で発表しとられました。なかなかお話も上手な方ですから、もうすばらしい話をなされました。その中にです、本当に今まで朝参りやら毎日続けておられる方達は、そげん参らんでん教えを守っていきさえすりゃおかげはこげん頂かれるのに。私の方を見て下さい。こげんおかげ頂きよると。もうおかげだけは確かにおかげ頂いとったんです。それで、けれどもなら一度朝参りを始めさせて頂いて、言うなら本当の亊が分って来たんです。これは何と言っても、生涯かけて朝参りだけは続けにゃと言う決心がついた、お届けをした。そのお届けの感動を話しておられるんですね。私はも終生朝参りを続けますという発表をしておられる時に感動が起こって来たんです。聞く者もやはり感動でしたけれども、私はお話がすんで申しました。それは○○さんあんたの感動じゃなかったね。あれはあんたが終生、この間違いのない神様に、この信心に打ち込ませて頂こうと決心がついたと言う亊を神様が感動ましましたんだよというてお話した亊でございますけれどもね。確かに打ち込むからには確かなものを見極めてからでなからなきゃ打ち込まれん。おかげさえ頂くなら、しゃっち合楽じゃなかでん、心に思うとらんでんそのような雰囲気がもしあるとしたらです。今あなた難儀しとんなさるがどこに参ってんなさい。もう、それこそああたがたん仏様が祟ってござるとですばい。そればいっちょ供養ばしてごらんなさい、助かるばいち、いうたらほっとこうその助かると言う亊に、迷うていくような人も沢山、実を言う鱈あろうかと思う。おかげが確かと言うたち。ですから確かなものと言うものをです、ここにふんまえての言うなら、雨が降るから、風が吹くからね、えらいと思わずにそれに打ち込んでいくと言うでなかったら打ち込んでもですね、おかげは今言うように、一心をたつればね、我が心に神がござるからおかげになるとおっしゃるおかげは頂くけれどもなら、身に徳を受ける修業にはならないと言う亊でございます。 皆さんどうでしょうか、もう絶対私は昔からこの絶対と言う言葉を使うから、親先生からいつも大坪さんあんた、絶対、絶対ばかり言うばってんその絶対ちゅう言葉は本当は絶対使うちゃいかんち言われました。人間神様じゃなかもんかん、そげん絶対てん言う亊があるはずがなかち。所が私は昔からもうそのやっぱそれだけ確信が強かったっじゃなかでしょうか、誰よりも。絶対ち、ね。だから合楽の場合は今のように間違いのない言うならば実験実証をふんまえての絶対ですから、皆さんも熊谷さんが例えば、先日その○○さんの家でされたと言うようにです。決してキリスト教を悪く言いなさい。仏教を悪く言いなさいじゃないけれどもね。本当に合楽の信心がこんなにもすばらしい信心だ。そのそれに間違うた亊に思い込んでおる人達にはどうでも本気で自分が確信しておる亊が伝えられるだけのね、合楽であり、金光教の信心であって初めて打ち込めば、打ち込むだけの打ち込みがいを感ずる。言うなら手応えのあるおかげもお徳も頂けていくと思うんです。ね、そりゃ成程、悪口とか批判とかいけませんけれども、ね。けれどもね、まあそこに本当にその人が助かりたいと言う願いがあられる、又は助かりたい、助かってもらいたい。私が日々こういう本当に間違いのない信心が皆に、どうして徹底して分らんのだろうか。いうならばまだ徳貯めの力が足りんのだ、分からせきらんのだというふうに思うんですけれども。そこにねこんなにも間違いのない信心を人に伝えておかずにはおけない。いうならばそういう情熱がいわば、雨も、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うんですむ信心に繋がっていくと思うんです。お互いもちっと、もっともっと合楽の間違いのない所を極めていかなきゃならんと思うんです。 「どうぞ。」